ペプチド・成長ホルモン

MOTS-c

MOTS-c(mitochondrial open reading frame of the 12S rRNA-c)は、細胞核ではなくミトコンドリアDNAにコードされている16個のアミノ酸からなるペプチドです。2015年に南カリフォルニア大学の研究グループが、主に骨格筋に作用し、マウスのインスリン感受性を改善するシグナル分子として報告しました。研究者らは「運動模倣(exercise mimetic)」作用を持つと表現しており(Dieli-Conwright et al., Sci Rep 2021)、インターネット上では「研究用ペプチド」として販売されています。

最も重要な事実は、ヒトを対象にMOTS-cそのものを検証した対照試験の結果は一切公表されていないという点です。完了している唯一のヒト試験は、CohBar社が作製した改変アナログであるCB4211を用いたもので、その結果は同社の発表したトップラインデータとしてしか存在しません。それ以外に知られていることのほぼすべては、マウスや細胞培養の実験から得られたものです。MOTS-cは承認された医薬品ではなく、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)は禁止される代謝調節薬として明記しています。

このページでは、公表されている基礎実験、動物実験、ヒト観察研究および規制当局の報告を要約しています。教育目的の情報であり、医療上の助言ではありません。

項目 詳細
分類 ミトコンドリア由来ペプチド(MDP)、AMPK活性化作用を持つ代謝調節物質
構造 アミノ酸16個、C₁₀₁H₁₅₂N₂₈O₂₂S₂、2,174.6 g/mol(PubChem)
由来 ミトコンドリア12S rRNA遺伝子内の短いオープンリーディングフレーム
開発段階 承認製品なし、アナログ(CB4211)の完了した第1相試験が一件、2026年に登録されたMOTS-cの第2相試験が一件
研究された用量 マウス:腹腔内注射で0.5–15 mg/kg/日。ヒト:CB4211 25 mgを一日一回、4週間にわたり皮下投与
半減期 ヒトおよび動物における血漿中半減期の公表データなし
米国での位置づけ FDA未承認、規制物質ではない、FDAが薬局調製(compounding)における安全性の懸念を指摘
WADAでの位置づけ 常時禁止、クラスS4.4.1(明示的に記載)

概要

ミトコンドリアは独自の小さなゲノムを持っています。その中に、小さなシグナルペプチドをコードする短いオープンリーディングフレーム(sORF)が存在することを研究者らが発見しました。最初に発見されたのはヒューマニンでした。次に見つかったのがMOTS-cで、ミトコンドリア12SリボソームRNA遺伝子の中から発見されました(Lee et al., Cell Metab 2015)。

2015年の論文では、以下の点が報告されました。

  • MOTS-cの最初の11残基は、14種にわたって高度に保存されている。
  • MOTS-cは、マウスやラットの多くの組織、およびヒトとげっ歯類の血漿中で検出される。
  • ミトコンドリアDNAを除去した細胞での実験により、核ではなくミトコンドリアに由来することが裏付けられた。
  • 絶食によって、マウスの骨格筋および血漿中のMOTS-cが低下した。

PubChemでは、合成MOTS-cの化学式はC₁₀₁H₁₅₂N₂₈O₂₂S₂、分子量は2,174.6 g/molと記載されています(PubChem CID 146675088)。

考えられている作用機序

細胞培養において、MOTS-cは葉酸・メチオニン回路およびそれと連動する新規(de novo)プリン合成経路を阻害します。これにより、このペプチドを過剰発現させた細胞では、内因性代謝物であるAICARが20倍以上蓄積します。そしてAICARが、細胞の主要なエネルギーセンサーであるAMP活性化プロテインキナーゼ(AMPK)を活性化します(Lee et al., Cell Metab 2015)。AICARはそれ自体も研究用化合物として販売されています(AICARを参照)。

ただし、AMPKだけで作用のすべてが説明できるわけではありません。これらの細胞でAMPKを遮断すると、実験手法によってMOTS-cの解糖系への作用が16–40%減少しました(Lee et al., Cell Metab 2015)。

同じ研究室による2018年の研究では、グルコース制限などの代謝ストレス下において、MOTS-cがAMPK依存的に細胞核へ移行することがわかりました。核内でMOTS-cは抗酸化応答遺伝子を含む多くの遺伝子を調節し、ストレス応答転写因子であるNRF2と相互作用しました(Kim et al., Cell Metab 2018)。これらは細胞培養での知見です。

薬物動態

ヒトにおけるMOTS-cの薬物動態試験は公表されていません。動物における血漿中半減期の公表データも見つかりませんでした。

CohBar社によるアナログCB4211の第1a相試験では、単回および反復皮下投与後の薬物動態が測定されましたが、そのデータは臨床試験登録簿にも査読済み論文にも報告されていません(NCT03998514)。CB4211は改変された分子であるため、その動態がMOTS-cにそのまま当てはまるとは限りません。

ドーピング検査のためにMOTS-cの質量分析法を構築した研究所は、試験管内で生成された四つの代謝物と二つの酸化生成物を同定しました(Knoop et al., Rapid Commun Mass Spectrom 2019)。この研究でも半減期は報告されていません。

規制上の位置づけ

  • 承認状況: MOTS-cはFDA(米国食品医薬品局)から医薬品として承認されていません。臨床段階に入った唯一の類縁物質であるCB4211は、2021年に第1a/1b相試験を完了しています(NCT03998514)。
  • 新規の臨床試験: MOTS-cそのものを対象とした第2a相ランダム化プラセボ対照試験が2026年2月に開始されました。前糖尿病かつ過体重または肥満症の成人120人を登録し、固定用量を一日一回、12週間にわたり皮下投与して、主要評価項目としてインスリン感受性(Matsudaインデックス)を評価する計画です。主要評価項目の完了は2027年2月と見込まれています(NCT07505745)。
  • FDAによる薬局調製の審査: MOTS-cは薬局調製(compounding)での使用候補として提案されましたが、重大な安全上のリスクをもたらす可能性がある原薬群であるFDAの「カテゴリー2」に分類され、その後提案は取り下げられました。FDAの一覧表には、いかなる投与経路においてもMOTS-c製品に関する「ヒトでの曝露データは確認されていない」と記載されており、調製されたMOTS-cには免疫反応(免疫原性)およびペプチド関連不純物のリスクがある可能性が指摘されています(FDA)。
  • 規制物質: MOTS-cは、アナボリックステロイドが対象となっている米国のスケジュールIII(Schedule III)リストには記載されていません(21 CFR 1308.13)。
  • スポーツ: WADAの禁止表国際基準(Prohibited List)では、S4.4.1「代謝調節薬」のAMPK活性化薬の例として「mitochondrial open reading frame of the 12S rRNA-c (MOTS-c)」が明記されています。AICARやGW501516と並び、競技会時および競技会外を問わず常時禁止される非特定物質です(WADA 2026 Prohibited List)。ドーピング検査のためのバリデーション済み質量分析検出法が2019年に公表されています(Knoop et al., 2019)。

研究でわかっていること

マウスにおける代謝とインスリン感受性

最初の論文では、マウスにMOTS-cを腹腔内注射で投与しました(Lee et al., Cell Metab 2015)。

モデル 用量と期間 主な結果
マウス 5 mg/kg/日を7日間 耐糖能の改善
高脂肪食マウス(クランプ試験) 5 mg/kg/日を7日間 全身のインスリン感受性の指標であるグルコース注入速度が≈30%上昇
中齢マウス 5 mg/kg/日を7日間 筋肉におけるインスリン刺激性グルコース取り込みが若齢レベルまで回復
高脂肪食マウス 0.5 mg/kg/日 摂餌量を変えずに食事誘発性の体重増加を抑制。通常食では体重への影響なし

著者らは、主な標的は骨格筋であると結論づけました。マウスの筋肉および血中のMOTS-c濃度は加齢とともに低下しました。

マウスにおける身体能力と加齢

同じ研究グループによる2021年の研究では、運動能力に焦点が当てられました(Reynolds et al., Nat Commun 2021)。

  • 若齢マウスでは、5 mg/kg/日では差が出なかったものの、15 mg/kg/日を投与した群で対照群よりもトレッドミルでの走行時間と走行距離が有意に伸びました。別の試験では、握力は改善しませんでした。
  • 高齢マウス(22か月齢)に15 mg/kg/日を2週間投与したところ、未処置の高齢マウスと比べて走行時間が約2倍、走行距離が2.16倍に伸びました。
  • 高齢期からの投与(約24か月齢で開始、週3回投与)では、生涯終盤における握力、歩幅、および60秒間歩行テストの成績が改善しました。
  • 寿命は統計的に有意ではない傾向にとどまりました。生存期間中央値は6.4%、最大寿命は7.0%長くなりました(曲線全体でP = 0.23)。著者らは、より大規模なコホートが必要であると述べています。

そのほか多くのげっ歯類研究でも、食事誘発性の脂肪肝疾患モデル(Lu et al., Cell Rep 2024)や圧負荷心不全モデル(Zhong et al., J Cell Mol Med 2022)など、疾患モデルにおける保護作用が報告されています。ただし、これらの用途はいずれもヒトでは検証されていません。

ヒトにおける内因性MOTS-cと運動

これまでのヒト研究は、MOTS-cを投与した際の効果ではなく、体内に元々存在するMOTS-cを測定したものです。

研究 デザイン 結果
Reynolds et al. 2021 運動習慣のない若年男性10人、一回の自転車運動セッション 運動後に筋肉内のMOTS-cが11.9倍に上昇。血漿中濃度は運動中に1.6倍、運動後に1.5倍に上昇し、4 h以内にベースラインへ戻った
von Walden et al. 2021 成人30人を持久性運動群、レジスタンス運動群、対照群にランダム化 持久性運動後の血漿中MOTS-cは有意ではない上昇傾向にとどまった。濃度は体力レベルと関連していなかった
Dieli-Conwright et al. 2021 乳がんサバイバー49人を対象とした16週間の運動試験の二次解析 非ヒスパニック系白人女性では運動によりMOTS-cが上昇したが、ヒスパニック系女性では上昇しなかった

観察研究では、2型糖尿病の人は血中を循環するMOTS-cが少ないことが示されています。参加者602人を含む7研究の2024年のメタ解析では、糖尿病では濃度が低く(SMD −0.89、95% CI −1.12〜−0.65)、一方で肥満症では濃度が高いことが報告されました(SMD 0.51、95% CI 0.21〜0.81)(Zhou et al., Diabetol Metab Syndr 2024)。こうした関連性は、MOTS-cを増やすことが有益であることを示すものではありません。

血中濃度測定に関する注意点: ほとんどのヒト研究では、市販または自家製のELISAキットを用いてMOTS-cを測定しています。ドーピング検査機関が市販のELISAキットと質量分析法を比較したところ、健康な20人においてELISAで測定された45.9–218.5 ng/mLという値は、検出限界が100 pg/mLの質量分析法では確認できませんでした(Knoop et al., 2019)。そのため、MOTS-cについて報告されている絶対的な血中濃度の解釈には注意が必要です。

遺伝学的エビデンス

主に北東アジア人にみられるMOTS-cのバリアント(m.1382A>C、アミノ酸を一つ置換するK14Q)は、日本人の長寿に関与する可能性のある因子として提唱されました(Fuku et al., Aging Cell 2015)。その後、27,527人を対象とした三つのコホートのメタ解析により、同じバリアントが女性ではなく男性、特に身体活動量の少ない男性における2型糖尿病の高い有病率と関連していることが示されました。マウスでは、このバリアントペプチドは通常のMOTS-cが持つ体重およびグルコースに対する有益な作用を失っていました(Zempo et al., Aging 2021)。

ヒトにおけるアナログCB4211

CohBar社は、MOTS-cの「改良型アナログ」と位置づけるCB4211を、脂肪肝疾患および肥満症を対象に開発しました(CohBar 10-K, 2022)。同社の第1a/1b相試験には88人が登録され、用量漸増パートには肥満でない健康な成人が、続くパートには非アルコール性脂肪性肝疾患(NAFLD)を伴う肥満成人が参加し、28日間にわたり毎日の注射またはプラセボが投与されました(NCT03998514)。

同社のトップラインデータによると、結果は以下のとおりでした。

4週間後の評価項目 CB4211 25 mg 毎日投与(n = 11) プラセボ(n = 9)
ALT(肝酵素) −21% +4%(差は有意)
AST(肝酵素) −28% −11%(差は有意)
グルコース −6% 0%(差は有意)
MRIによる肝脂肪、絶対変化量 −5.03ポイント −4.88ポイント
肝脂肪が相対的に30%以上減少した割合 36% 33%

主要な画像評価項目である肝脂肪は、実薬群とプラセボ群でほぼ同程度に減少しました。体重は傾向がみられるにとどまりました。これらの結果は企業の提出書類に基づく20人規模のデータであり、査読済み学術誌には発表されていません。

副作用とリスク

MOTS-cそのもののヒト安全性データは存在しない

FDAは、いかなる投与経路においてもMOTS-cのヒト曝露データは確認されていないとしています(FDA)。ヒトにおける副作用、安全な用量範囲、および長期的な影響は不明です。

アナログの試験で示されたこと

CB4211の試験では、第1a相の参加者に、皮下の痛みを伴わないしこりとして記述される軽度ながら持続的な注射部位反応が生じました。CohBar社が途中で製剤処方を変更したところ、これらはみられなくなりました。同社は第1b相パートにおいて重篤な有害事象はなかったと報告しています(CohBar 10-K, 2022)。

製品の品質と免疫反応

FDAの薬局調製に関する審査では、特定の経路で投与される調製MOTS-cについて二つの懸念が指摘されました。一つは免疫原性(ペプチドに対して体内で抗体が作られたり他の免疫反応が起きたりする可能性)、もう一つは特性解析が困難なペプチド関連不純物です(FDA)。「研究用ペプチド」として販売されている製品は医薬品の製造基準に従って製造されておらず、その同一性、純度、無菌性は検証されていません。

アンチ・ドーピング

MOTS-cはWADAのリストに明記されており、検出法も確立されているため、ドーピング検査の対象となる競技のアスリートが使用すると制裁の対象となります(WADA 2026 Prohibited List)。

要点

  • ミトコンドリアDNAにコードされたペプチド: MOTS-cはアミノ酸16個の長さを持ち、12S rRNA遺伝子に由来する、ヒューマニンの類縁ペプチドです。
  • 動物データは有望だが限定的: マウスではインスリン感受性を改善し、食事誘発性の体重増加を防ぎ、高齢動物の走行時間を約二倍に伸ばしました。寿命の延長は統計的に有意ではありませんでした。
  • MOTS-cそのものの公表されたヒト臨床試験はない: 唯一の臨床データは、アナログであるCB4211について企業が報告した20人規模の試験によるもので、プラセボと比較して肝酵素は低下したものの肝脂肪は減少しませんでした。
  • ヒト研究は内因性濃度を測定したもののみ: 運動によって筋肉や血中のMOTS-cは上昇し、2型糖尿病では濃度が低いことが示されていますが、ELISAによる測定値は信頼性に欠けます。
  • 安全性と品質は不明: FDAはヒトでの曝露データを確認しておらず、薬局調製されたMOTS-cについて免疫原性と不純物のリスクを指摘しています。
  • スポーツでは禁止: WADAはMOTS-cをS4.4.1の代謝調節薬に指定しており、常時禁止としています。

出典

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